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🔍️カタカムナの解読法について

カタカムナの解読法については、以下の三つの主なアプローチがあり、それぞれに特徴と限界が存在します。 **1. 独自解釈** カタカムナを独自の想念や個人的な知識に基づいて解釈する方法です。 このアプローチでは、日本古来の言灵(コトタマ)を無視し、個人的な定義づけを行い、 独自の世界観が優先されがちです。そのため、解釈が個人の独自の視点や知識に依存することになり、 解読ではなく、あくまで「独自解釈」となります。 この方法では、カタカムナが本来伝えている内容や意図を十分に理解できない可能性が高くなります。 **2. 表層的解釈** 表層的解釈は、カタカムナの単語や句を現代語に置き換えたり、 表層的な意味で解釈しようとするアプローチです。この方法では、 意味不明な単語や古語に対して無理に意味を当てはめる傾向があり、 結果的にカタカムナの深い意味が捉えにくくなります。現代の言葉での表面的な解釈では、 カタカムナに込められた根本的な意図が失われやすいため、解釈が浅くなりがちです。 **3. 深層解読** 深層解読は、カタカムナの古語を稲荷の古伝の言灵に基づき、 種字(図象符)を読み解く方法です。この手法では、カタカムナのルーツである稲荷の言灵法則に従い、 表層を超えた深い意味を読み解くことができます。 稲荷の水火(いき)の御伝に基づく言灵法則は『古事記』の神世七代にも影響を与え、 空海が「いろは歌」を製作した際にも利用されました。 カタカムナの図象符もこの言灵の法則によって作成されており、したがって、 深層解読によってのみ本来のカタカムナの意義が明らかにできるのです。 **『楢崎皐月氏の解釈とその限界』** 楢崎皐月氏は、カタカムナを解読する際に言灵に依拠せず、 物理的な意味付けを行いましたが、 この方法では「独自解釈」の域を出ず、本来のカタカムナが伝えようとした深い意義に到達するには限界があります。 その証拠として、中心図象の定義が曖昧であり、「ヤタノカカミ」「フトマニ」「ミスマルノタマ」と定義付けられてはいるものの、 本来の国学に照らし合わせると名称が不適切であることが判明しましたが、それを現在まで80年間誰も指摘しませんでした。 その理由は、カタカムナが『独自解釈』と『表層的解釈』の域を出なかったからだということになります。 『カタカムナの解釈に対するスピリチュアル的アプローチの影響』スピリチュアル業界では、 カタカムナを個人の世界観で自由に解釈することが多いですが、カタカムナは三種の神器の構造や国学と深く関わり、 神聖な存在として扱われています。そのため、スピリチュアル的な独自解釈ではなく、 日本古来の言灵法則に基づいた理解を進めることで、カタカムナの持つ尊厳を守り、 正しい理解が得られるのではないでしょうか。カタカムナを解釈する際には、国学の知識を基礎に、 言灵の法則に沿って学び、日本人としての文化的・精神的な基盤を崩さないよう配慮することが重要です。 **まとめ** カタカムナの解釈にはさまざまな方法が存在しますが、 表層的解釈や独自解釈ではカタカムナの本来の意味を捉えにくくなります。 それどころか、御神体であったカタカムナの解釈を独自解釈に結びつけてしまうということは日本人の 精神的支柱を歪曲させてしまうことに無意識ながら加担してしまうのです。正しい解読には、 稲荷の古伝の言灵法則を活用した深層解読が必要であり、日本古来の文化的・ 精神的な価値を尊重したアプローチが望まれます。こ のようにして、カタカムナが持つ真の意義と日本人の文化的な基盤を守りつつ学びを進めていくことが大切なのです。

水穂伝 序 

『水穂伝 序』 現代語訳

広大な海の底にある珠を探す者がいました。 船を進め、様々な技を駆使して珠を探し求めましたが、 網を使っても取れず、周りの人々も助けてくれるものの、 手に入れることはできませんでした。 しかし、ある者が考えました。 「この珠は雲の上にあるのでは?」と。 確かに、そこには貴重な珠があり、 その中には多くの秘密や宝が詰まっていることが分かりました。 感謝して、その宝を持ち帰りました。 この伝説を知っている杉菴という人物は、 早くからその珠の意味を追求していました。 彼はその場所を探し求め、遠くの海を渡り、 最終的に真の珠を見つけることができたのです。 この珠は天からの贈り物で、 綺麗な滝や急な川から採れる塩を使って洗浄し、 三十年以上の歳月をかけて磨き上げられました。 この珠は、**布斗麻耳乃御灵(ふとまにのみたま)**と呼ばれるものであり、 その形や言葉、法則が、この書に詳しく記されています。 ある者がこの書を持ってきて、それを見たとき、 「これは神からの宝である」と感じました。 この理解は、天の風が厚い雲を吹き飛ばすように、 心の中の霧を吹き飛ばし、物事をはっきりと見る智慧をもたらすものでした。 そして、この書の中には、 その知識や感覚を流し込むことができる「水の茎」が含まれていると信じられています。 私はこの書の端々に、その意味を記しています。 遥かなる地やさまざまな人々と共に、この書に記されたことを保持し、 事を成し遂げる者は、尊敬されるべき存在です。 神祇伯雅寿王(1807年 - 1834年)

五十連十行之発伝(イツラトシマのオコリの)ツタエ

五十連十行之発伝(イツラトシマのオコリのツタエ)

右五十連十行之発伝 前に在番附は仮名の起の順なり。 ◯天地の初発に、伊邪那岐、伊邪那美の二柱、阿那邇夜志愛袁登古袁(アナニヤシエヲトコヲ)と言竟(イヒヲヘ)て、御合ましし時に、ゝとホの灵(ミタマ)現。 其御灵、マルチョン(◯は女神の水、ゝは男神の火)是如(かくのごとく)。 此灵の現を、淡道穂狭别の嶋を生といふ。 其**ホ**の灵、右に割別て氣起のオの灵をなし、 左に割別て終の**ヲ**の灵をなし、 次に氣脹るるの**ヘ**の灵起て、 右に割別て天地の胞衣の**エ**の灵をなし、 左に割別て胞衣搦むの**ヱ**の灵をなし、 其胞衣の中より水火二ツに别れむとして**フ**の灵起て吹き、 右に浮昇の**ウ**の灵起、 左に渦巻降の**ウ**の灵起て、 竟に**ヒ**の灵起て火となり、 次に**ミ**の灵現て水となり、 亦水は火の為に右に割別て昇水火の**水火(ホシ)**と現れるなり。 - *イ**の灵をなし、火の灵は左に割別て引く水火の井の灵をなし**水火(シホ)**と現れるなり。 次に**水火(イキ)**放(ハナ)るるの**ハ**の灵起て、 水の氣は**月**となりて右に割別て**ア**の灵を現て天をなし、 火の氣は**日**と現て左に割別て**ワ**の灵を現て地をなし、水の灵の**月**は朧(おぼろ)にして形を兹に見せす、火の灵の**日**は形を兹に現はしぬ。 - *故に、ア行は天を宰る。** ワ行は地を宰る。 - *ハ行は地の方を宰る。** - *此アワの二行はホの一言より割別をもてアハ道(ヂ)のホの狭別と云なり。** 次に**ア**の灵の水と**ワ**の灵の火と文にして**ヤ**の灵起り、 次に**ア行のイ**と**ワ行の井**と文にして入息の**イ**の灵起り、 次に**ア行のウ**の水と**ワ行のウ**の火と文にして**ユ**の灵起り、 次に**ア行のエ**と**ワ行のヱ**と文にして昼夜の胞衣の**エ**の灵をなし、 次に**ア行のオ**と**ワ行のヲ**と文にして水火を與むの**ヨ**の灵起て引水火定り、 然して出る水火の正中に**ノネヌニナ**と起て、総て水火の中に位す。**是を伊預二名島といふ**。 伊預(イヨ)とは息與(イヨ)なり二名とは出入息の二つの中といふことなり嶋は行(シマ)也。 次に**ラリルレロ**と起こりて、引息を搦みて降る(ナニヌネノは清(キヨキ)水にて昇、ラリルレロは濁(ニコル)水にして降る。 - *是を筑紫島といふ**。 此濁水降に従て、引息の火の灵いよいよ凝て**コ**の灵起り、**ロ**の濁水と與て水火かたまるの**ソ**の灵を起て地の初をなす。 其初をなすに従て差別分(ケジメワカレル)の**ケ**の灵起り、 其差別分るるに従て水火與の**セ**の灵起て瀬となり、 其瀬をなすに従て**ク**の灵起て土をなす。 其土をなすに従て**ス**の灵起て洲となり、 其洲現るるに従て火の氣の**キ**の灵起て、 雲霧霞も晴て**カ**の灵起て日も暉て影をなし、 其暉に従て洲の上に**シ**の灵の水起て(此シの水を清(シ)水と云う清(シ)は借字なり。 次に**サ**の灵起て上に割別て昇り、 力行は伊邪那岐神、サ行は伊邪那美神。此二行の水火誘双を、二神の御名とす。力行を伊伎島といふ(伊伎は息なり) サ行を津島といふ(ツは水にして津なり) 此二行起に従て、**ラ行の濁水息弥いよ収まる**なり。 生れて両眼を閉る。総て口中の水を宰。小児の涎,或は成長(ひととなり)て言語の別あしきも、皆此ラ行の濁水収さるの故なり。 呼吸に在て離れず。**閉はラ行の濁水**にして、開は**カ行サ行**の活用なり。 故に、此二行起てより、澄めるものは昇て天となり、濁れるものは降て地となり、人の言語の別をなす。 然して、ニ柱の水火和して、伊邪那岐の氣は水中の火となりて降。是を**タ行**といふ。 万物の種を宰て、一より百千の数をなす。其種を宰の**タ**の灵現る。 種は一粒にして百千の数をなし、次に**チ**の灵現て、**チ**は一より始て百千の数をなし、 次に**ツ**の灵現れ、**ツ**は続き連なる義にして、一より二に続連て百千の数に及。 次に**テ**の灵現れ、手の名は一にして左右あり。合て百千の数をなし、 次に**ト**の灵現れ、**ト**は人の灵なり。人の名は一にして女男有。女男與て百千の数に及ぶ。 此行、総て万物の**灵根(タネ)のゝを宰る**。是を**佐度の島**といふ(サは細なりトは火なり細なる火を宰る行(シマ)と云うことなり。 次に伊邪那美の氣の、火中の水となりて**マ行**現る。 此行は潤水にして、タ行の火と與舫(このマ行の水を真水と唱える真は借字) 故に、**モ**の灵起て**タ行**と舫い、**メ**の灵起て陰陽回り、**ム**の灵起て陰陽睦み、 次に月の灵の**ミ**は、前に**ヒ**の灵と共に起といへとも、陰陽朧にして光をなさず。 兹に至て**ラ行の濁水収り**、**カ行サ行**の火水(イキ)、澄昇に従て始て光を現て照暉、**マ**の灵起て円をなし、然して亦、月の灵の**ミ**は**ム**と睦、**メ**と回り、**モ**と日月(イキ)舫い、陰陽舫て万物を生し、人及鳥獸草木ことごとく現て一世界满足なり。則、**タ行水中のゝ**と**マ行火中の◯(水)**と與舫て、御灵マルチョン如是。 ◯は万物の子宮にして、ゝは万物一滴の種なり。是を**大倭豊秋津島(オホヤマトトヨアキツシマ)**といふなり。 附ていふ。五十連十行の仮名の発こと如是。此十行の水火を與開て言(ものいう)なり。其水火を與解て詞の本を知の法則は、ことごとく二の卷に詳にす。

南方曼荼羅

土宜法龍宛書簡(南方マンダラほか)  南方マンダラと呼ばれる図は、主に二つあり、いずれも後に高野山真言宗管長となる土宜法龍に宛てた書簡の中に描かれている図である。  一つは、1903年7月18日付書簡の中に描かれており、真言密教のマンダラの思想をヒントにして、それを自身の思想に読みかえて絵図を交えて説明したものである。熊楠はこの図について、「この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりでも、それを敷衍追及するときは、いかなることをもなしうるようになっておる」と解説している。  もう一つは、1903年8月8日付書簡の中に描かれており、熊楠が「小生の曼陀羅」と呼んだ、真言密教でいわれる両界(金剛界・胎蔵界)マンダラの発想をもとに描かれた絵図である。熊楠は、この両界マンダラを記し、金剛界大日如来の心より物が生じ、その心と物がお互いに反応し合うことで、さらに事が発生し、さらにはそれが名・印といったかたちに生成していく複雑な現象を説明している。 南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。 南方マンダラ1903年7月18日に土宜法龍との書簡の中で記されたマンダラ。書簡の中で図で記されている。この図において熊楠は多くの線を使って、この世界は因果関係が交錯し、更にそれがお互いに連鎖して世界の現象になって現れると説明した。概要は、わたしたちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「物不思議」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「心不思議」、そして両者が交わるところである「事不思議」という領域、更に推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「理不思議」で成り立ってる。そして、これらは人智を超えて、もはや知ることが不可能な「大日如来の大不思議」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」である。この図の中心に当たる部分(イ)を熊楠は「萃点(すいてん)」と名付けている。それは様々な因果が交錯する一点である熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという。熊楠の考えるマンダラとは「森羅万象」を指すのである。それは決して観念的なものではない。今ここにありのままに実体として展開している世界そのものにある。 出典:https://www.minakata.org/facility/collections/minakatamandala/

【4】動画資料
ことたまソング ー カタカムナウタヒ 第一首 言灵解 ー
すべての動画
動画資料
三木成夫先生最後の講演

18分くらいから ハレー彗星の尾っぽに沢山アミノ酸があり、地球を通過するときに降り注ぐ

玄語資料
田上式数靈學
カタカムナ説について 田上晃彩と楢崎皐月の弟子小宮山嘉一との対談内容

数霊学の田上晃彩とカタカムナの楢崎皐月は交流があったことをご存じですか? 下は楢崎皐月のお弟子さんとの対談の内容です。 [小宮山] ところで、先生は樽崎先生とお会いになつたことがありますか。 [田上] 伺回もありますよ。初回から衝突しましたよ。彼自身も、仲々良いところもみていますが-。 けれども、私の知る限りでは、あまりにも独眼流です。なんでもかんでも、八軸でしか認識できないんです。 だから、現在までの物質科学の延長線における認識論でしかないんです。時間論がないんです。 それをもつて、精神界が解けるとかの、大言壮語をしていますが、自分自身の明日の在り方すら解けない者が、 精神界が解けるといつても、ナンセンスです。 「カタカムナ」だけがあらゆる意味における指導原理であると言つているんですが問題はそこにあるんです。 本人も行き詰まって、霊能者と接触して、何等かのヒント、材料を得よぅとしたようですが、行動において矛盾が多いんです。 彼は、さきにも話したように、八軸専門ですが、八軸がどこから出てくるか、果して、八軸は人間の生命と、 物質と、どのような相関関係があるか、六軸の場合は何か、彼は六軸が分かっていません。 そうすると、八軸と六軸の合一の原理を解くことができずに、数霊否定をすれば、自殺行為ですよ。 ということは、数霊理論からみれば、彼が解読したという「カタカムナ」は、三分の一の領域でしかありません。 [小宮山] 田上先生の本を読む前に、私自身、樽崎先生と常に話し合った問題が、田上先生が今話された、⑥と⑧の兼ね合いのところなんです。 [田上] ですけれども、いかに考えても、⑥と⑧がどこから出て、どこで絡まるかが、わからないでしよう。 [小宮山]そうですね。⑥と⑧が基本ですからね。[田上]それが解けないところに、問題があるんですよ。 [小宮山] そこのところを、梅崎先生はアマノカブといっています。 [田上 ] そのようなことでは駄目ですね。アマといっても、アマ自体がどのような構造をもつているかを知らないと、解けませんね。漢字で「アマ」を「海女」というように書くようでは、今までの言霊解釈を、そのまま借りてくるようでは、「アマ」の構造が解けるものではありません。 [小宮山] 樽崎先生は、カタカムナを図象文字で表現したものを分解し、それで解釈しているでしょう。 [田上] それなら、その基本となつた文献、「平十字」というものが、何故、伝統として隠されてあったかの、その母胎となつた思想は、何んだったのか。 ここに、原点追求の謎解きの眼がなければならないのです。 私は、数霊理論からみて、「カタカムナ」で言う、四十八音符の記号についても、すぐわかるのです。彼の場合は、何故、四十八音なければいけないかという、必然的な問いかけはできない。 そうしてみると、五十音と四十八音との関連はどうなのか、アイウエオ四十七音と、ヒフミ四十七音とは、どのような相関関係があるか、それが解けなければ、言葉が解けたとは言えないんです。 外国語におけるアルファベットなど 日本における音霊とは違いますからね。フランス語、ドィッ語、ロシャ語、スペィン語- 違いますな。 その違いが、日本の言葉と、どのような位相において、直結しているかという、そこまでこなければ、四十八音符うんぬんといっても、はじまらないです。 [小宮山] 樽崎先生の場合、全体像を期待することは、無理だと思います。しかし、あのようなことを(図象文字)解読されたということは、貴重だと思うんです。 [田上] それは私も言っているんです。彼は確かに良い研究家だと思っているんです。批判しながらも認めています。認めているから批判するんです。 例えば、八軸なら八軸といつても、平面的な八軸ではないですから、八軸にとらわれていると、正五角形の理も、正二十面体の理も解けなくなりますね。 彼の数理展開を説明しますと、A図の①から左回りに、1・2・3・4・5・6・7・8ときて、9はどこに入るかと言うと、最初は⑨は①に重なるんだと言って、次には⑨は中心に入るんだ、このように相反したことを、平気で言うんです。A図とB図とでは全然意味が違うんですよ。 それと、なぜ①が右の場から出なければならないのか、ということを証明しなければ、-この問いかけがなければなりません。 また彼は「ィ」という音を、生命の中心だということを、日頃説きながら、一つもこれに対しての証明をしていません。にもかかわらず、「カタカムナ」は、万学の指導原理だというんですから、ナンセンスそのものです。彼自身が、俺れは科学者だと自負しているのならば、真理探究の原初的な精神をもつべきと思いますよ。 [小宮山] 私から見た場合、立体的な、自然の構造なり、原理なりを基本として、田上先生のやっておられることと、樽崎先生のやっておられることと、見事に絡み合う形だと思うんです。 私は、田上先生と樽崎先生とは、相当な結びつきがあるのかな、という感じで受けとったわけなんで、そのようないきさつがあったとは、今まで気づきませんでした。 [田上] 親しい間柄どころか、まったく正反の仲ですよ。 [小宮山] 正反は互換重合しなければいけませんね。 [田上] そのあたりの媒介となるものは、時間なんです。時間が来なければ駄目です。[小宮山]ということは、「カタカムナ」に捉われているということですね。 [田上] 彼の神学説を聞くと、相当コジッケがあります。これはひどいものです。 [小宮山] 私は田上先生のお出しになった著書をみて、非常に興味をもちました。だから先生の会が、伺んの拘束もない、真理を学ぶ場であるという点は、嬉しいですね。 [田上] 会費を払い、裃をぬいで来るなら、何時でも良いと、ただし、裃をつけて来るなら、何んにも、学ぶものがないから、おやめなさいと言うんです。 [小宮山] 私も数霊を学んでいきたいと思いますから、よろしくお願いします。 [田上]こちらこそ、どうぞ。数霊における理という伝達は、理なるが故に象(かたち)において出して来ているんです。いわゆる抽象ではなく、宇宙の象、即ち宙象ですね。 一般的には 「抽象」という渓字で表現しますが、部分的な抽象ではなく、全体像としての、「宙象」として掴んでいるのです。 これが本当の意味の、日本の神道の原理原則として、写し出され、形とし、型とし、構造として掴まえているんです。 [小宮山] なるほど、画家としての眼をもっておられる先生の着眼点に驚きます。 [田上] 私はよく皆さんに言うんですが、自分の前に何があったか、先生がいたし、文献があったではないか。 その前には、何があったか、やはり、先生がいたし、文献があったではないかと、 -それを極限まで押し進めて考えると、その原点には、一体何があったか。自分と自然との対応しかないではないか。 その中の場に立って、初めて人間の生きる知患が出てくるんだと、 - これが本当の活きた学問の真理探究なんだ。そこに目を据えることができれば、学歴とか地位などというものは、いっぺんに吹きとんでしまうんだと、この話をよくするんです。 だからといつて、人類の遺産である文献をないがしろにするんではなく、それはそれとして、おおいに受け入れるけれども、その文献を生み出した思想にこそ、学ばなければいけない。文献に学ぶんではないですよ。 文献のための文献であつては、いけませんね。このことを、私は、心の中に厳しく言いきかせています。 数霊の研究において、いままで、「もう駄目だ」ということが、伺回となくありました。 ここまでやつてきて、駄目だとすれば、私は人生の落伍者である。もし、私がやつていることが真理でないとすれば、私はもう駄目だ。 また、もしこれが真理であるとすれば、必らず生かされなければならない。 それを思つた途端、パーッと、波動と破壊数が発見されてきたんです。 それから三六〇度次元が変わつてきました。現在の数霊理論の体系は、ノー卜なしに、講義しながら、体系づけようとする意志のないまま、私のロから語られ、知らず知らずのうちに、体系づけられたのです。 [小宮山]よく人間は厳粛さがなければならないと、誰かが言つておりましたけれど、その厳粛な瞬間に、転身できたといいますか、展開できたんですね。 大変有益なお話をお聞きできましたことを、嬉しく存じます。 楢崎皐月氏。「考古物理学」提唱者。カタカムナ図家の解読者で、鉄の研究家。「カタカムナ」 - 樽崎皐月氏が、昭和二十四年初頭、兵庫県六甲山系の金鳥山の頂上に在る俗称狐塚(芦屋道満の墓)の辺で、偶々あった平十字氏より、カタカ厶ナの御神体として伝えられた卷物より解読された、古代の直観物理の学。小宮氏。古代思想研究家で、晩年における樽崎氏の弟子。

田上式数靈學

田上晃彩講義録 数霊実用講座 

8:22〜本当の言霊

📗 講義文字起こし資料(PDF)

📒田上数霊学研究会ブログ

数霊学の田上晃彩とカタカムナの楢崎皐月の話
​天聞&中尾心士郎先生の対談

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